苫米地義久の歴史
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1944 (昭和19年)10月2日 東京 青山に生まれる。
1959 中学3年、ザ・ピーナッツやクラリネット奏者故鈴木章司氏の演奏で大ヒットした“小さな花”に感動、クラリネットと作曲を始める
1960 青山学院高等部時代、歌手荒木一郎氏らと JAZZ BANDを結成
1962 高校3年、プロミュージシャンになることを決意、大学受験勉強停止
1963 万が一の事態に備え、電子技術を学ぶため蒲田・日本工学院に入学
1964 サックスを始める
1965 いよいよプロの道へ!と浅草のキャバレーで演奏中、客とホステスが下品なダンスをしているのを見て“何か変だ?これは音楽をやるところではない!”と突如感じてプロになることをやめ、客として来る!ことを決意。
『そりゃ最初に行ったところがヤバカッタ!ワッハッハッ』と渡辺貞夫氏。
音楽は趣味で…と潔く割切り、早くも万が一の切り札を使って、スタジオエンジニア目指して就職活動開始。
幸運にも日本ビクター(現ビクターエンタテインメント)に入社、築地スタジオに配属となる。
以後72年頃まで渡辺貞夫、富樫雅彦、山下洋輔、チャーリー・マリアーノ、宮沢昭、村岡建、中村誠一など主にジャズ系アーティストの録音を多く手掛ける。
この頃、オリジナル曲中心の『トーマス・バンド』結成、以後92年までライブ活動を続ける。
1967 渡辺貞夫氏よりジャズ作編曲法を学ぶ
1971 筒美京平氏よりポピュラ−編曲法を学ぶ
乗り回していた愛車は永遠の名車、美しいデザインの“初代日産シルビア”(1964年製)
温暖化の先兵で燃費はたったの6km/l(1600cc)!
今は自転車に乗ってます。
1977 オリジナルアルバム『トーマス・バンド Vol.1』発表
1978 ビクタースタジオ技術課長。スタジオ機材が発展途上の時代、オリジナルスタジオ機器の開発に燃える
1985 毎日放送・芸術祭参加番組「単独行〜植村直己とその妻」優秀賞(音楽担当)
1987 ビクタースタジオ次長
1988 オリジナル曲のみによる『トーマス・ビッグバンド』を結成するが、時間的負担大きく少々活動ののち解散
1990 ビクター山中湖スタジオを山中湖平野の音楽施設サウンド・ビレッジと提携してオープン。担当を務める。また、建築、インテリアデザイン、カラー、音楽制作の会社羅漢(らかん)をデザイナー田辺元史氏と設立、役員となる。
1991 ビクターを退社し音楽に専心を決意。
ピアニスト・ボーカルの石塚まみとユニットを組み、アニメなどの音楽制作や演奏活動を開始しつつ、環境映像作家フォレストメッセージ渡辺進氏と環境映像やリラクセーションCDの制作などをはじめる。
同時に縁あってサウンド・ビレッジの代表取締役になる。
1993 オリジナルセカンドアルバム『自然をありがとう』発表
1994 渡辺進氏とアポロンより環境音楽CDとビデオ『北/南アルプスの楽園』発売
1995 渡辺進氏と現地を訪ねて作る『音楽紀行シリーズ』(ビクター発売)を開始
第一弾として「北アルプスの風」(立山)、「北アルプスの清流」(上高地)発売
1996 『音楽紀行シリーズ』「北アルプスの青空」「北アルプスの星」「八ヶ岳の森」発売
1998 『音楽紀行シリーズ』「四万十川」「西表島」「宮古島」発売
ユニティよりリラクセーションアルバム『Photonシリーズ』「光の森」発売
2001 『音楽紀行シリーズ』「屋久島」「高千穂」発売。この作品より苫米地の単独制作となる
2003 東京都の大道芸システム『ヘブンアーチスト』のライセンス取得、ストリート活動を開始!
2005 『Photonシリーズ』第二弾、月の歌「月の光のセレナーデ」(ユニティ)発売
大腸がん発覚!2月に大手術、機能障害と付き合うことになる。
2006 アルトサックスによる名曲バラード集「TOMA Ballads」(ユニティ)発売
2008 『Photonシリーズ』第三弾、地球讃歌「愛しき星」(ユニティ)発売
バラード集第二弾「TOMA Ballads 2」(ユニティ)発売。TOMA Balladsシリーズとなる!
2013 バラード集第三弾「TOMA Ballads 3」(ユニティ)発売
「音が素晴らしい!」ということでビクター(JVCケンウッド)ウッドコーンスピーカーの販促CDに採用される。
ついでに苫米地義久はコラボレーションアーティストとなる。
12月、やはり「音がスゴく良い!」ということで日本音楽スタジオ協会主催「第20回日本プロ音楽録音賞」のジャズ、フュージョン部門で優秀賞を受賞。
最優秀賞に次いで日本でこの年2番目に良い音のCD!ということになる。e-onkyoから9624高音質配信も開始、最高位2位を約10日間キープ!
エンジニアは元ビクタースタジオ長で巨匠の高田英男氏。2013年現在フリーランスとして活躍中。